2011年10月21日

「贋作 猫と庄造と二人のをんな」

そもそもこのブログのタイトルも、谷崎潤一郎の「猫と庄造と二人のをんな」にちなんだものです。
登場人物
佐藤百合子
佐藤龍彦
澁澤春夫
権田 (雑誌新緑の編集者)
スージー(シャムネコ)
金子(男子学生 大学図書館アルバイト)
川村(女子学生 大学図書館アルバイト)
安永 (男子学生 大学図書館アルバイト)

「百合子へ。 久しぶり。 元気か。このアドレスが変わっていなければいいのだが。
早いもので僕が出て行って1年近い。
君はもう、佐藤と籍を入れたと人伝に聞いた。まだおめでとう、を言っていなかったね。入籍、おめでとう。どうかこれを厭味ととらないで欲しい。
一番ごたごたしていた時期は正直、佐藤を恨みもした。
でも今は君のいない生活のリズムというものが自分にもできた。
時間が経ってしまえばもうこれは嫌味でも何でもない。

今日、メールを出しているのは他でもない。
唯一つ、出て行った家に残したもので僕が気にしていることがある。
僕が置いていったテレビとかオーディオとか、君と選んだ家具でもない。
それはスージーのことだ。
僕があの猫を大事にしていたことは君も良く分かっているだろう?
僕がとりあえず住んでいるアパートではペットを飼うことができない。
だから仕方なくスージーを置いていったのだ。
君も猫は嫌いじゃなかったし、それなりに大事にしてくれていた。
佐藤はどちらかと言えば犬派で、あの家に飼い犬のチワワを連れてきたのだろう?
つまり、2人とも僕ほどスージーを大事にしてくれるのだろうかという点だ。
どうか僕がスージーを引き取られるような住居を見つけるまで預かってもらえないだろうか(出て行く前に念押ししたことでもあるが)。
あの子のことが気になって眠れない、
月刊誌の締め切りにも差し支えることもある。
幸い、去年発表した作品が文学賞にノミネートされそうだ。
そうなったら、受賞できないまでも今よりは状況は良くなるだろし、スージーと暮らすめどもつきそうだ。

スージーのことをくれぐれもよろしく頼む。
佐藤にもよろしく伝えて欲しい。春夫」

百合子は読み終えたあとのパソコン画面を忌々しげに見つめていた。
何という男だ。
私への未練よりもスージー、スージーって。
龍彦と別れて自分とヨリを戻して欲しい、
やっぱりお前のことが好きだ、の一言がどこにも無いではないか…。

ぅなーお。
百合子の足元につるんとした毛の固まりが触った。
シャム系の猫らしいやや寄り目のブルーグレーのガラス玉が百合子を見上げている。
日本猫との雑種だそうだから、
ピンクがかったベージュ色の短い毛が身体全体を覆ってはいるものの、
シャム猫の特徴として表れるシールポイントと言われるこげ茶色の毛は
スージーの顔の中心と尻尾にそれ程濃く色づいてはいない。
尻尾も床に倒れるほどに長くは無く、そうかといって尾曲がり猫のようにちぎれた短さでもない。
中途半端な長さの尻尾が30度くらいの角度で立ち上がったままである。

「スージー?…びっくりした。今ね、あんたのパパのメール読んでたのよ」
ぅなーお、ぅぅぅなーん。
「パパって言ったら分かるのかしら…
ちょっと今さ、構っていられないから後にしてくれる?」ぅなーお、ぅなーお、あんあん。
「うるさいなあ。あっち行ってなさい…ほら」
「おい、腹が減っているんじゃないのか」
「…あら、帰っていたの」

夫の龍彦がチワワのジャックを抱いて立っていた。
グレーのパーカーにベージュの毛がくっついている。
やや内股の長い足に履きこんだインディゴブルーのジーンズ。
スージーは百合子の黒いスパッツを履いた足元から向きを変えて、青い長い爪とぎに絡まり始めた。
「ただいまぁ、スージー。いたた…おニャかすきましたかー。待っていなさい、
今かつおスティックあげるから」
龍彦は居間件ダイニングキッチンのカウンター下にある引き出しの一番上から「チャオ」というメーカーの細長い袋を取り出した。
白い猫の写真がパッケージに付いている。
ん、なーお、ぅなーお…
引き出しが開けられる音に反応してスージーが身を乗り出した
。袋を破る前からピンクベージュが龍彦の右腕に絡みついた。

「スージーはこれが大好きだもんなー…おい、買い置きがもう無いぞ。
リビングホームの特売は昨日で終わっていただろ?」
リビングホームというのは隣町のホームセンターである。
この夫婦は犬と猫の食事はその店で買い揃えることが多い。
「知らないわよ。貴方がチラシ見ていたのなら、自分で買ってくればいいじゃないの」
百合子は夫の夕飯の支度が遅れているのを咎められるのならまだしも、
猫のおやつで指図されたことに苛立った。

「あのね、春夫から今日メールが来ていたの」
「春夫さんから?何で、今頃?」
い、ま、ご、ろ?今更、ではないのか。
百合子は呆気にとられた。
夫がまるで春夫のことを龍彦の大学の先輩からの便りが届いたかのような反応を見せたからだ。

「春夫がスージーを近いうちに引き取りたいって言ってる…」
百合子は夫に春夫がメールに書いてきた近況をかいつまんで話した。
「何だよ、それ。マジかよ。春夫さんはスージーを置いていったんだろう?今更、何言ってるの」
今更、というフレーズがこの時龍彦の口から出たことに百合子は目を見開いて夫の薄い唇を凝視した。
「どうせあの人のことだから、文学賞なんて言っても現実味が無いのだろうけどね。今までだって候補にすら上ったことは無いのだから」
「でもさ、春夫さんの書くもの、俺結構好きだぜ。
猫の話いっぱい書いてるだろ。デビュー作の『湖畔の猫』って新人賞取ったじゃないか。他にも…」
龍彦が春夫の作品を読んでいたことも百合子は知らなかったが、次から次へと猫を題材にした作品を羅列していくことにも驚いた。

「春夫さんさ、才能あるよ。もっと売れていいと思うな。その文学賞の話、結構手応えあるんじゃないのか。彼、嘘は言わないだろ」
「作家で嘘つきじゃない人なんかいるもんですか!」
百合子は声を荒げて夫を睨みつけた。
「何怒っているんだよ…」

百合子は我にかえって冷蔵庫のドアを開けながら、手早く作れそうな献立の吟味を始めた。
春夫のメールの前で思ったほど時間をくってしまい、
手の込んだ物を作る気がしない。冷凍庫にトマトソースがあった。
あれとハンバーグの種を解凍して、サラダを添える。
パスタも茹でてバターソースと和える。
フランスパンがあったからガーリックバターで軽くトーストしてトマトソースの残りでブルスケッタ。
キャベツや人参の千切りを入れた簡単なスープ。頂き物のワインがあったっけ…。

「文学賞本当にノミネートされるなら、めでたいことには違いないわ。
そうなると、春夫はスージー返して欲しいって言ってるけど、依存ないよね?」
「えー。スーちゃん、スーちゃんはもう前のパパのことなんか、忘れたよねぇ…。龍パパのほうが好きだよねぇ…」
猫は龍彦にあごの下を撫でられて、大きな音をさせてゴロゴロ言い出した。

猫はさ、たくさん会ってるし何匹か飼ったことあるけど、
スージーみたいな子には会ったことないね。ゴロゴロ喉をならす子はいるけど、外にもはっきり音が聞こえる子はなかなかいないよ…。
春夫が言っていたスージーの美点とやらの数々を、どうしてこんな時に思い出すのだろう。

「まあ春夫さんが実際にいい状況になるんだったらまた言ってくるだろうからさ、スージーのことはその時考えればいいさ」

百合子は猫をやり取りすることなど簡単にすませられる話だと思っていた。 夫の意外な反応に鼻じらみながら、解凍すべき食材を電子レンジに入れ、パスタを茹でるべくお湯を沸かしはじめた。
料理好きの彼女は軽い夫婦の諍いも食卓を整えることで気晴らしに変えることができる。
「ワインとグラス取ってくれる?」

春夫からのメールが届いて10日ほども経っただろうか。
百合子は図書館の事務室の中で時計を見て帰り支度を始めた。
大学の付属図書館の司書である彼女は月曜から金曜までは6時、隔週の土曜日は休みで勤務日は5時には帰れる。
他の司書も同じ時間に帰るので、
その後は10時までアルバイトの学生たちが図書館の建物の鍵を管理することになる。
「お疲れ様、後お願いね」
金子という男子学生と川村という女子学生が今日の当番である。
「お疲れ様です」と金子が百合子と同僚を振り返ってカウンターから応える。
川村は書籍貸し出し希望の学生の応対をしていた。

百合子が階段を降りようとしたとき、背の高い男が階下で声をかけた。
「やあ。今、帰り?」
「あら…こんばんは」
春夫だった。
同僚たちは横目で2人を見ながら「お先にぃ…」足早に図書館の棟から足を踏み出した。

「ここで会うのは久しぶりだわね。まだ通っていたの」

単科大学に近い小規模の大学なのでキャンパスはそう大きくはない。
それでも市立の図書館よりは遅くまで開いているし、学生の試験期間以外は一般も利用できるので春夫は時々この図書館を利用していた。

「僕が来るのはここの学食で晩飯食ってその後だから、大体6時半くらいかなあ。君とは入れ違いみたいだし」
学生食堂は7時までの営業だから学生も多く利用するし、そうかといって一般人が入れないほど混雑しているわけでもない。
百合子は春夫が彼女を避けてその時間帯に図書館を利用しているのか、本当に夕食を取れる時間帯に合わせているのか判断をつきかねた。

「学食でコーヒーでもどう?ちょっとさ、話があるんだ」
今日に限っては元夫が百合子を待ち伏せしていたようなそぶりを見せることに彼女はそう悪い気がしなかった。
「いいわよ。あなたは食事していくの?コーヒーでお相伴するわよ」
「そうだな、ここのカツカレー結構旨いんだ。
昨日はうどん定食だったから今日はそれでいくか」

春夫は自販機の前で財布を取り出してコインを入れ、ブラックコーヒーのボタンを押した。
コーヒー缶2つのうち1つを百合子に渡しながら
「熱いから気をつけて」
「有難う」
2人は学食の4人座りのテーブルで学生が隣に座っていない所にコーヒー缶を置いた。
「食券買ってくるから」
春夫は食券売り場に行って何か一言告げて食券らしき小さな紙を受け取った。
百合子の席に戻ってきた春夫は
「今日残業無かったのか」
「うん。この頃は講演会とかイベント貸し出しも無いし、このところいつも定時で帰ってる…オーダーストップ6時半でしょ?カツ定食残っていた?」
「カツはあるけど味噌汁が無いって。カツ丼にしてもらった。あのオバサンまだ居たね」
春夫と顔馴染みの柳原という調理師の女性がサービスしてくれたらしい。

「…話っていうのは?」
わざわざ百合子の勤務終了を待っていたらしい春夫の前で、彼女はデパ
ートで購入したばかりのライダースジャケットを着てこなかったことを少し悔やんだ。
スゥエードの七部袖ジャケットに白い丸襟のカットソー。
こげ茶とベージュのストールを首に巻いてブーツカットのジーンズ。
足元は茶系のショートブーツ。
そう安っぽくはないがここの女子学生の服装と大差無い。
カシミアのセーターにコーデュロイパンツというシンプルだが垢抜けていて、ここの非常勤講師
たちよりも数段知的な風貌の春夫と自分は学生たちの目にどう映っているのだろうか。

「こんばんは、佐藤さんお疲れさまです。」
「こんばんは」
今日シフトで入っている2人とは別のバイト生安永が百合子に気がついて挨拶した。
安永は春夫のほうをちらっと見たが、すぐに前方にいた女子学生に追いついて自分たちのテーブルについた。

「カツ丼のお客さーん」調理師の柳原が春夫のほうを見て声をあげた。
「あ、俺だ。取ってくるから」
春夫の持ってきたトレイにはカツ丼にポテトサラダの小鉢と漬物が添えられていた。
「…随分あなたに親切ね」
「毎日ってわけじゃないけど良く来るからかな。お昼も来る事あるしな…
この前のメール、読んでくれたかな?」
「スージーを引き取るとか、文学賞のノミネートとかって」
「それ。本当に実現しそうなんだな。新緑賞にノミネートされた。
来週雑誌が出るだろ。ここの図書館も雑誌が寄贈されているけど新緑もあるだろ。
受賞作となると、来月号掲載だけど」
「新緑賞…」
新緑賞というのは、芥川賞直木賞ほど権威はないのだが、創設されて20年、受賞者の中にはその後芥川賞受賞者も多く輩出している。
「良かったじゃない、おめでとう。凄いわ」
「サンキュ。月間新緑の権田さんいるだろ。君も会ったことあるけど。
あの人がこの頃俺のマネージメントみたいなことしてくれててさ、新緑系列の雑誌とか他誌にも連載とか増えそうなんだ」百合子は大柄で小太りな32,3歳の男を思い出した。そうやり手には見えないが、頭の回転は速いし押し出しも弱くは無さそうだ。

「へえ…面倒見がいいのね」
「大作家の傍に名編集者ありき、だろ。」
「大した自信ね」
「権田さんが『猫を食む』の第一稿を読んだ時からさ、澁澤さんこれはなんか今までのと違う、こいつはイケますよって熱くなっちゃってさ…」
「また猫の話なんだ」
「なんだぁ、読んでないのかよ」
「悪い。この頃本とか、別に貴方のものだけじゃないのよ、読んでなくてね…」
百合子は龍彦が春夫のノミネート作品も読んでいるのだろうかとちらっと思った。
「俺のハードカヴァーとか文庫って初版しか出ていないだろ、直ぐに絶版になったのもあるし。それが今度は権藤さんもえらくプッシュしてくれて始めて文庫の2刷目が出るんだ。講演会依頼とか、サイン会とか大学の文学講座とか、何か忙しくなりそうなんだ」
「へえぇ…それはまた。」
「まとまった金も入りそうだしさ…スージーと暮らせるマンション見つけたんだ。昨日、手付けも払ってきた」
「えぇー。気が早いのね…」

「俺がスージー連れて行くことにそっちは異存ないんだろう?」
「あ、それが…」
百合子は実は龍彦が思ったよりも猫に執着していて,
いざ譲渡という話になると揉めそうだ、という口を滑らしそうになって思い留まった。
何も今ここで直ぐにカードを切り出すことはない。

「ん?何かあるのか」
「ううん、旦那がね…」
百合子は旦那、の部分に力を込めて発音したのだが春夫がそれに気がつかないのに唇を噛んだ。
「旦那がね、貴方の作品結構読んでるんだって。面白いって」「へー。そいつはどうも、って伝えておいて。別に異存無いんだろうからさ、こっちも本格的に
忙しくなるのはもう少し先だろうし。
そっちの都合に合わせるには早いほうが
いいからさ、スージー引き渡す日とか、相談しておいてくれよ」

春夫は一切れ残ったカツを口に放り込み、白飯と卵を器用に箸で纏めながらどんぶりを綺麗に空にした。
百合子はすっかり温くなった缶コーヒーを薄いピンクの爪でつつきながら、
「うん…こっちから連絡する。引越しはいつなの?」
「引越しっていうか本ばかりだけどね。もう新しい所に少しずつ荷物運び入れてるんだ。今住んでいるところからバス停3つくらいしか離れていないし。
薬泉の公園あるだろ、あの近く」
「ああ、スージー貰った猫カフェがあるとこ」
「そうそう、スージーも懐かしいだろうし、あの店は猫を譲渡した里親なら猫シッターとか猫ホテルのサービスもしてくれるしな」
「…至れり尽くせりじゃない、猫には」

百合子は龍彦にどう話したものかと思ってそれから後の春夫の話には生返事ばかりしていた。幸い、調理師たちが皿の音を派手に立てて洗い出していたので、
「もう出て行かないとあのおばちゃんに悪いわよ、せっかくおまけしてくれたんだから」

百合子は大学近くのスーパーで買い物した袋をぶら下げてマンションに帰ってきた。
鍵を開けるとジャックはいないので、龍彦が先に帰宅して散歩に行ったらしい。

うなーん、あんあん。
ドアを開けるやいなや、ブルーグレーの寄り目が玄関先で百合子を見上げていた。
「ただいま…オヤツは貰っていないのかな?」
カウンターキッチンの台上にはチャオの袋が開封されて乗っていた。
「貰ってるじゃないの。足りなかった?」

うなーん、うなーん。
百合子はシステムキッチンの引き戸を開けて缶詰とドライフードを取り出した。
スージーが百合子の足元をぐるぐる廻っている。
有田焼の赤絵のサラダなどを入れる皿は春夫がスージー用に使っていたものを置いていったものだ。
猫に贅沢すぎる、と百合子は彼と暮らしていた頃非難したものだが春夫は聞かなかった。

ガタン。
マンションのドアが開けられる。
外からの風で少し足元が冷えた。

うなーん。あんあん。
ピンクベージュの塊が龍彦の足元に絡まりつく。
うなっうなっ。あんあん。
猫はこげ茶の尻尾を立ててぐるぐるこの家の主人の周りを廻り始めた。

「ただいま…スージー、いい子にしてた?」

妻よりも猫に帰宅の挨拶をする。

芸能人でも最近、夫が猫ばかり可愛がると妻に三行半をつきつけられた男がいた。

確か彼も、帰宅一番、猫に先に挨拶をしていたということだった。

いちいち目くじらをたてていたら、結婚生活などできない。

それよりも今日は龍彦に春夫の話をしなくてはならない。

「あのね、また春夫に会ったのだけど」
「へえ、それはまた?」

どうしてこの男は妻が元夫に会ったという事実に無反応なのだろう?

「この前言っていたよね。スージーを引き取りたいって」
「うん?…マジなのか?」

初めて龍彦の顔が曇った。

だから、どうしてスージーの話で反応するの…?

「新緑賞にノミネートされたんだって。文学賞の。それでね…」
「新緑賞?スゴイじゃん。さすがだね。それで?」
「まとまった収入になりそうだし、生活のめども立ったってことかしら。それでスージーと暮らせるマンション見つけたんだってよ」
「なんだよ、それ?」

気色ばんだ龍彦の顔を見ないようにして、百合子が言った。

「今すぐの話じゃあないけどね、スージーを引き取りたいって言ってる。」
「駄目だよ!」
「どうして?」
「猫は家につくっていうじゃないか。春夫さんのほうが出て行ったから場所は変っていないけど。
人間は1人が入れ替わってるんだ。
そりゃあ春夫さんも可愛がっていただろうけどさ。
俺だって負けないくらいに、いや、それ以上に可愛がってるよ。
それはスージーだって分かってるさ」

目の前にいる男が百合子を春夫から奪って今は龍彦と夫婦に納まっている。
あの時、少なからず龍彦は百合子に対する情熱を見せてきた。
しかし、今、スージーの話をする男とその男は果たして同じ人間だろうか?

「でもね」
語気を強めて百合子が言った。
「あの人は1人だもの。私があなたに取られたのよ、いわば。猫くらいあげたって…」

「猫くらい、じゃないよ!1年の間にあっち行ったりこっち来たり。可哀想じゃないか。」

「可哀想?」

ふふん、と鼻を鳴らして百合子が返す。

「可哀想なのは春夫だわ。1人で暮らしているのよ。」

百合子は「私があなたに取られた」という表現に特に反応しなかった龍彦に苛立った。

いや、待てよ。これ以上言うとこの人は言うかもしれない。

スージーが可哀想なのではない、自分がスージーと離れたくないのだ、と…。

ふぅーん、ふぅーん。

猫が2人の間を交互に見上げていた。

「よしよし…いい子だな、スージーは。分かるんだな、自分のこと言われてるって。」

分かるわけないわ…、と言おうとして百合子は言葉を飲み込んだ。

「そうだ。いいことがある。」

突然目を輝かして龍彦が言った。

「何よ、いいことって…」

「俺さ、春夫さんのマンション見に行こうかな。本当に猫を飼える物件なのか確かめにさ」

「ええ?何でまた」

「ほら、飼えるからって嘘ついて内緒で飼ってる人とかいるじゃないか。可哀想だもんな、声とか聞こえないようにしてさ。」

数日後。

百合子は図書館の4階にある閉架に収める書籍を乗せた台車をエレベーターで運んでいた。

4階には利用者用に半畳ほどの個室のドアが6つある。

学生の試験前などはすぐに塞がってしまうが、それ以外は部外者にも解放される。

その勉強室の一番端の部屋に見覚えのある後姿があった。

「あ…」

春夫だった。

春夫は百合子と結婚していた頃、いやその前からこの個室をよく利用していた。

ドアにある小さなガラス戸の向こうから百合子はそっと覗いて見た。

原稿用紙や広辞苑、現代用語の基礎知識などの辞書類や新聞のバックナンバーなどの資料が机の上に乗せられている。

春夫は頭をあげて机の正面にある窓の外を眺めている。

百合子はしばらく見つめていたが、やがてドアをノックしてみた。

トントントン。

「はい…?」

春夫が振り返る。百合子の姿を確認してああ、という顔を向ける。
百合子はドアを開けて春夫に声をかけた。

「ごめんね、執筆中に」
「いや、構わんよ。小休止。」
「まだここ利用してたんだ」

百合子はドアを開けて立ったまま話しかけた。
「今試験中でもないだろ。午前中は空いてるし、よく使わせてもらってるよ。引越し先は片付かないし、いくらネットで調べられるといってもネット情報は玉石混交だからな。昔の資料は閉架にたくさんあるしな」
「そうね。閉架を利用する人は先生方でもそんなにいないわ。」
「それと…あれ」
と、春夫は窓の外をあごで示した。
「え?…」

百合子は何のことか分からず、窓の外の景色を眺めた。
「浅子山。あれ見るの好きなんだ。なんとなく、ね…」
「へえ…浅子山ね…」

百合子は標高300メートルほどの浅子山を見た。
「日本の山って富士山に似てるだろ、形とか。いろんな山が。」
「そういえばじげもんは浅子富士って言ってるわね。高さは10倍も違うのにね」

「あのふもとの小学校あるだろ、浅子小学校が13クラスもできてマンモス化したから西小学校ができてさ。そこの校長に頼まれてこの前、児童文学の朗読会に行ってきたよ」
「あら、そんなのも頼まれるの?」
「校長が中学国語の免許もあるんだって。地元の作家さんに是非、って乗り気でね。校舎に強い風が吹いてきてね、浅子おろしっていうんだって。子供たちがキャーキャー言って渡り廊下を駆けていたよ」

「浅子おろし…」

「体育館に校歌が貼ってあったけど、浅子おろしってフレーズがあったよ」

「…あのね、6時10分頃また学食で待ち合わせていいかな。ちょっと話したいことがあって」

「うん?…いいよ、君も勤務中だもんな。じゃあ後で」

百合子は個室のドアを閉めて台車を留めてある閉架のほうへ向かった。

「お先に。あとお願いします」
百合子はアルバイトの学生2人に声をかけた。
「お疲れ様です」
安永という男子学生が意味ありげに百合子のほうを見てかえした。
百合子が出て行くのを見届けてから、もう1人の金子に耳打ちした。

「佐藤さんってさ、結構キレイだよな」
「うん…?ここの司書さんの中ではまあ若いし。30位かな」
「この前さ、学食でなんか非常勤講師みたいな男の人と話してたんだ」
「へえ…旦那さんじゃなくて?」
「旦那が職場に来るわけないじゃないか。そんな雰囲気じゃなかったし」
「ふうん…佐藤さんってバツイチじゃなかったっけ?」
「そうだってね。その男の人、割りにイイ男だったんで。やるじゃんって思ったさ」
「おまえ、あんまりそんな話するなよ。佐藤さんは他のおばちゃん達よりバイトに良くしてくれるんだからさ」
「あれ…金子ってああいうの、タイプ?」
「そういうんじゃないけどさ、俺だけにしとけよ、そういう話するの」
「優等生だなー、おまえ。でもあの男、なんかどっかで見た顔なんだよな…」
「非常勤講師かなんかだろ?」
「いや、そういうんじゃなくて、なんか…?あ、お前晩飯食べにいっていいぞ」
「おお。じゃあ頼む」
学生バイトは講義の無い時間帯は4時くらいから入っているので、6時頃交替で食事に行っていいことになっている。
金子は7時に学食が閉まる前に食事休憩に行った。

まさか学生バイトたちがこんな噂話をしているとも知らない百合子は洗面所で化粧直しに余念がなかった。
脂取り紙は男性用のほうが良く脂が取れる、これは春夫と付き合いだした頃にわかったことだ。
以来、百合子は必ず男性用のフイッツという青い脂取り紙を使う。
ファウンデーションから塗り直して、パウダーは軽くはたく。
色白の百合子はあまり白っぽいものを使うと塗り壁みたいになるので、あえてダークな色味のベースメイクをする。
口紅は今日のベージュ系の服に合わせてオレンジを塗る。
睫毛は長いほうなので、アイメークにはさほど必要ない。
出来るだけ素顔感覚のメイクに仕上げる。
香水はつけ直さない。
帰ってきた時、猫が嫌うからだ…というよりは香水のキツイ匂いをスージーが嫌がる、と龍彦が言うので。
6時10分を2,3分過ぎた事に気がつき、慌てて洗面所を出た。

学生食堂の前に行くと、春夫が缶コーヒーを持って外のベンチに座っていた。
「ごめんね、ちょっと遅くなった」
百合子が春夫に声をかけた。
「いや…定刻どおりに終わらないだろ、勤め人は。こっちは自由業だからどうしたって待つほうになるさ」
2人は学生食堂の中に入って空いている席に腰掛けた。
「食事していいか?君はこれを飲んでいるといい」
春夫は缶コーヒーを百合子に渡して、食券のある機械のところに行った。

間もなく、春夫はごぼう天うどんとサラダの置かれた四角い盆を下げて百合子のテーブルに戻ってきた。
「今日はなんかヘルシーじゃない?」
「あんまり腹も空いていないし…で、話って何?」
春夫はうどんのツユを一口啜った後、百合子を見上げて聞いた。

「うん…龍彦にね、スージーのことと貴方のマンションの話したの」
「それで?」
「なんか私の思ってたよりもスージーに執着するのね、あの人。前は猫とかそんなに興味無かったのに」
「ええ?龍彦君が?…スージーと仲良いのか?」
「そうねえ。スージーも懐いているし、龍彦なんか…」
帰ってくるなり自分よりも先に猫にただいま、を言う、と言いかけて百合子は口をつぐんだ。

「この頃やけにスージーにご執心なの。貴方がスージーを引き取りたいって言ったら、驚いてた」
「へええ。そうか…それで?」
春夫は箸を持ったまま、百合子を見据えて言った。
「なんだかスージーを渡したくないみたいなのね…」
「え、どうゆうことだよ?」
「私も驚いてるの。この人、そんなに猫が好きだったかなあって。なんかグズグズ言ってるわ。」

「渡したくないって龍彦君が言ったのか?」
「はっきりとは言わないわ。でもおかしなこと言い出してね」
「おかしなことって?」
「貴方の引っ越すマンションが本当に猫を飼えるところなのか、確認したいって」
「あれ?そういう話になるんだ?」
「物件を見に行きたいって言ってるんだけど…」
「俺は構わないけど?」
「でも…変じゃない、それ?」
「何が?」

妻の昔の夫がいるマンションを今の夫が訪ねる、その不自然さにどうして2人の男たちは気がつかないのだろう。
なぜ、私だけが気を揉むのか?
「龍彦君がスージーを大事にしてくれるのは嬉しいよ。ウチに確認に来たいってそりゃあ、別に構わないけど?」
「あの、そういうことじゃあなくて…」
百合子は元夫との噛み合わない会話の中で、総務課の話の分からないベテラン職員を思い出した。

「分からないな」
分からないのは私の方なんですけど。
ああ、でもこれは言わないでおこうかな…

「とりあえず、君だけ今日これから来てみたら?」
「ええ!そう来ますか!」
「昨日から権田さんが泊りがけで来てるんだ」
「へえ、権田さんが。熱心ね。こんな地方にまで?」
「新緑賞のノミネートがホンコの話になってね…」
「あら、おめでとうって、まだ言ったらマズイかしら?」
「まあね…権田さんが言うには俺で本決まりだって」
なあんだ、マンションに行っても私1人じゃあないんだ…
百合子は舌打ちしたいような気分になったが、表情には出さないように努めた。
「久しぶりで権田さんに会うのも悪くないわね?…いいわ、龍彦には適当に電話しとく。遅くなるって」

あれ…佐藤さん?あの男が安永の言っていた人だろうか…
金子は学生食堂で司書の佐藤百合子と一緒に出て行った男をじっと見ていた。
安永もなんか見たことあるって言っていたけど、気になるな、俺もなんか見たような気がする。
非常勤講師とかじゃなくて、なんか有名人…?
雰囲気あるもんな。
安永は運良く夕方まで残っていた定食メニューをテーブルに載せたまま考え込んでいた。

百合子と春夫の車で彼のマンションのある薬泉に向かった。
やがて2階に「猫カフェ イズミン」の看板があるビルの前を通る。
「ああ…スージーを貰ったところね」
「そう。結構繁盛してるらしいよ。俺も『29』の連載で取り上げたし」
29、というのは『猫マガジン 29』のことである。猫関連の雑誌だ。29は肉球に引っ掛けたネーミングである。
「猫カフェ巡りのレポートでしょ。貴方にぴったりね」
「おかげで全国の店を廻れているもんなあ…あ、あのマンションだよ」
同じマンションの1階にコンビニがテナントで入っている。
公園も近いし、駐車場も敷地内にあって悪くない立地のようだ。

春夫はカードキーを出して1階エントランスのドアを開けた。
「オートロックなんだ…」
ということは、家賃は高い。百合子は春夫の話は本当だ、と思った。
エレバーターで7階に向かう。このマンションは7階建てなので、最上階ということだ。
春夫の部屋はフロアのちょうど真ん中辺り。
カードキーを出して自分の部屋を開けた。

「どうぞ、入って」
玄関部分はさほど広くはないが、下足入れが作り付けになっている。
春夫はお洒落で靴にもこだわりがあり、たくさん持っているが1人分ならば十分なスペースだ。
細長い廊下部分にドアが3つ。
トイレ、風呂場のスペース部分と他のドア2部屋は寝室と書斎、といったところか。
リビングダイニング部分にドアは無かった。

リビングスペースに通されて、まず目についたものは壁面にステンレスの飾り棚のようなものがある。
開封されていない大小のダンボールが2つ。大きいものには「リビングキャット」、もうひとつは「ニャラット」というメーカーの文字が。

「あの飾り棚、猫タワーにもなるんでしょ、龍彦が欲しがっているのよ」
「へえ…龍彦君、相当スージーを可愛がってくれているんだな」
「あの大きな段ボールは何?」
「キャットタワーだよ。ハンモックもあるんだ。さっきの猫カフェにも似たようなものがある。店にあるのは古いから、全く同じものは製造していないけどな。スージーが気に入るといいけど」
小さな段ボールはスージーがいつも食べるフードのメーカーのものである。
春夫がスージーを迎え入れる準備をしていることが分かり、百合子は龍彦がこれを見たらどう思うだろう、と心配になった。

コーヒーメイカーの音がしている。いい匂いがしてきた。
春夫が出来立てのコーヒーを有田焼のコーヒーカップとソーサーに淹れて百合子の前に置く。
「ブラックだよな?」
「…有難う。いい柄ね」
「この前有田のレポートも書いたんだ。お礼にってメーカーが送ってきた」
春夫は本来の作家活動とは別に企業から依頼される仕事もちょこちょこと書いて、どうにか糊口をしのいでいたのだが。

「…もうすぐ文学1本でやれそうじゃない?こんなマンションに住めるようなら」
「まあな。でも企業や猫カフェのレポートだって嫌いじゃないよ。取材になるしさ。いつか何かの作品に反映できるだろうしね」
「そうね…あ、お客様じゃない?」

春夫は玄関に向かった。
やがて騒がしい男の早口な声が聞こえてきた。
月間新緑の編集者である権田だった。
縦にも横にも大きいがっちりした体つきで、学生時代はラグビーをやっていたということだった。
ブランド物の眼鏡をかけて、短く刈り込んだ髪。服装は英国紳士風のお洒落をやや着崩したかんじ。
妻が「アナザーカントリー」という英国映画の俳優たちの服装が好きで、権田もラグビー好きだから英国にも馴染みがあるということのようだ。

「あれえ、ハイヒールがあるね…女性のお客さまあ?…おっと、これはこれは、百合子さんじゃないですか」
「お久しぶりです、権田さん」
「ご無沙汰してます、相変わらずお美しくお若い」
「嫌ね、業界の人は東京で若い美人はたくさん見てるでしょうに」
「いやいや…そうでもないですよ、あれ、お邪魔だったかなあ」
「いえ、いいの。今日はマンション見せたいって連れてこられたから」
「龍彦君が、百合子の旦那さんだけど、この家を見たいって言ってるらしくて」
「はあ…今のご主人がですか?…」
そうなのだ。別れた妻の現在の夫が元夫の住居を見たがる。そんな不自然な話があるだろうか。
他人が聞いたらそう思う。

「春夫が猫をね、引き取りたいって言うからそれを主人に伝えたんです。そしたら、なんか気が進まないらしくて。結構猫を可愛がっているものですから」
「はあ…それで、家を見たいっていうのですか?」
「そうなの。本当に猫を飼える環境でなくては渡さないつもりかしら」
「で、百合子さんの判断は?」
「え…立派なものじゃないですか?あの飾り棚だって猫も気に入るだろうし」
百合子は権田の追及にたじたじとなった。

「僕はね、澁澤先生がいい作品を書ける環境ならば、猫がインスピレーションを与えるのであれば、引き取ることには賛成ですね。猫好きな作家はたくさんいますからね」
「ねこねこって言うけどね、権田さん、スージーはそんじょそこらの猫じゃないんだよ…」
「ああ、ハイ、分かってますよ、それで先生、来月の選考会の件なんですが…」
権田は春夫のスージー愛は聞き飽きているらしく、巧みに話題を変えたが、今度は百合子が遠慮したほうが良さそうな方向に来ていた。

「あの、お仕事の話なら私今日はこの辺で失礼します」
「あ、いや、いいんですよ、百合子さん」
「そうだよ、来たばかりなのに…」
「いいのよ。家を見せてもらうだけだから。じゃあ権田さん、また会えるといいですね」
「すみません、俺が追いたてちゃったみたいで」
「いいのよ。お邪魔しました…」
百合子は玄関先でハイヒールを履きかけると春夫が来て、
「悪い、また来てくれよ。今度は龍彦君の都合つけて、連絡してくれるといいから」
「そうする。この家見たらびっくりするわよ、あの人。じゃあね」
「またな」
バタン。百合子はドアを閉めて出て行った。
どうしよう、なんて言おう。春夫は何もかもスージーのために揃えて迎え入れる準備をしている、って?

同じ時間帯の大学図書館。
夕食を学食で済ませた金子がカウンターに戻った。
安永に向かって「俺も佐藤さんと男の人が一緒にいるのを見たよ」
「あ、今日も来てたの?あの人4階の個室良く使ってるしな」
「俺もなんかあの人、見たことある気がするんだな…」
「そうだろ、ほら、これだよ」
安永は「しんりょく」と書かれた小さな雑誌のあるページを開いて見せた。
月間新緑が出している無料の小冊子だった。
ある作家のエッセイのページに顔写真がある。
「あ…これ、あの人だ」
澁澤春夫の短い紹介文と小さな写真が掲載されている。
「あの人、作家だったのか。どうりで」
「澁澤春夫が東京じゃなくて地元で作家活動をしているって話は聞いてたけどな、まさかこんな近くでとはね」
「そうか…おい、パソコンで調べてみないか?」
金子はインターネット上の百科事典サイトを立ち上げた。
澁澤春夫の項目には出身地や卒業した大学などが書かれている。
離婚歴が1回。

「離婚歴…?佐藤さんもバツ1じゃあなかった?」
「あ、そうだよ。それも相手の人は作家だって吉田司書が言ってた」
「じゃあもしかして、澁澤春夫が元旦那ってこと?」
「かもしれない。おい、安永、これは他に漏らさないようにしとけよ」
「お前、やっぱり佐藤さんが好きなんだな…」
「そういうんじゃないって。お前だって澁澤春夫の作品は結構好きだって言ってたじゃないか。だったら敬意を示せよ」
「まあね…でも、サインぐらいは貰ってもいいだろう?どうせまた図書館に来るだろうから」

安永は金子よりもちゃっかりした性格のようで、金子の純情さに鼻じらむ思いだった。
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ニックネーム わかたかたかこ at 15:34| Comment(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

猫,小説をつぶやくMeow! Cat小説をつぶやくNya

雨が降る。一日が長い。いつもの集会にニンゲンが来る時間。なにか億劫だが、一日行かないと次までが長い。隻眼のトラが来なくなった。尾長のクロにやられてからひどく憔悴していた。クロは俺を気にしているという。トラの兄いが次の跡目は俺だと予てから公言したからだ。俺は面倒な事は嫌いだ。
ぁん、ぁん。「何だあ、お前、初めて声聞いたぞ」俺は「蟹もいないんだよ、爺さん」と言いたいのだが奴等には鳴き声にしか聴こえないらしい。シンジンの目に蟹も土も葉も映っていない。あるのはただ、固まる前の柔らかい灰色の泥だけだ。俺は知っている。乾く前のあの泥が滑らかに塗り固められ、その上にウッカリ乗ったクロの子分が足を取られていたのを。「キジちゃん、あらまあ…」彼女がそっと奴の足を雑巾で拭ってやった。クロがまだトラの兄いに挑戦権を得ていない頃だ。

小路幸也「猫と妻と暮らす 蘆野原偲郷」より 「家に帰ると猫がいた。からからと格子戸を開けると玄関の上がり口にちょこんと座り、真ん丸い眼で私を見上げていたのだ。」「どこの猫だお前、と声を掛け、近づいても逃げようともしない。それどころか上がり口に腰を掛けた私に身体を摺り寄せてきた。人懐こい猫だな、と思いながら、奥に『ただいま』と声を掛けた。」「妻の返事がない代わりに猫がにゃあと鳴いて私を見上げる。」「思わずそう呟くと猫が頷いた。いや頷いたような気がした。」
冒頭部分の描写は完璧である。明治大正の文豪達の文章を読んでいるかのような錯覚を起こす。時代設定もどこか定かではないが、現代ではなさそうな。しかし、読み進むにつれ、予想と違う方向へ行きだしてそれが面白く読めるかというと分からなかった。

曽野綾子「ボクは猫よ」より 「『おい、ネコ、お前、魚欲しいか。イワシはうまいぞ』くれるかどうか何も言及してはいない。しかしボクは、サービスとしていかにも欲しそうに、一言にゃあと啼いておいた。」「その猫は、三毛の雌であった。彼女がどこから来たのか、ボクは知らない。ただ、彼女はのっそりのっそりと垣根を越えて、この家の庭に入って来た。そしてレースのように繊細な影を落としている柿の若葉の下に立って、しばらく庭に見入っていた。」
Gandee Vasn "Cat Capers (いたずらな猫たち)" 翻訳(友久ますみ) 

黒澤明監督「まあだだよ」の劇中劇!?「ノラや」のパートだけを録画した。ノラがいた頃どれだけ可愛がっていたか、を映画では特に強調しておらず(私にはそう見えた)、ただただ失踪後の内田百阨v妻の悲嘆ぶりを、原作を読んでいない黒澤映画ファンは唐突に感じたかもしれない。この映画での松村達夫もNHKの猫と芸術家特集で百閧演じた石橋蓮司も熱演だったが、外見が百閧ノ一番似ていたのは同じくNHKの特番でミムラ演じる向田邦子の父役を演じた俳優(山田明郷?)であった。

梶井基次郎 「のんきな患者」より 
「吉田はいよいよ母親を起こそうかどうしようかということで抑えていた癇癪を昂ぶらせはじめた。吉田にとってはそれを辛抱することはできなくないことかもしれなかった。しかしその辛抱をしている間はたとえ寝たか寝ないかわからないような睡眠ではあったが、その可能性が全然なくなってしまうことを考えなければならなかった。そしてそれをいつまで持ち耐えなければならないかということはまったく猫次第であり、いつ起きるかしれない母親次第だと思うと、どうしてもそんな馬鹿馬鹿しい辛抱はしきれない気がするのだった。」

桐野夏生「だから荒野」より  「その拍子に、浩光の膝から、飼い猫のロマンがずり落ちるようにして床に降りた。ロマンは太っているので、動作が鈍い。 ちなみに、『ロマン』などと、ふざけた名前をつけたのは、浩光である。朋美は知らなかったが、フランスに『ロマン・ロラン』という作家がいるのだそうだ。」「しかも、姑の美智子は、何度教えても『マロン』と呼ぶから、笑ってしまう。 子猫のロマンを貰い受けて来たのは、浩光だった。」「飲み屋のママのところの猫が子を産んだから、貰い手が付くまで預かる、と言うので、いずれ返すのかと思っていたら、猫はそのまま家に棲み着いてしまった。」「朋美は猫が好きではないので、正直、迷惑だった。猫の毛を掃除するのも、砂を替えるのも面倒臭い。ロマンの方もわかっているのか、朋美にはまったく懐かない。」「浩光がパンツの膝に付いた、猫の毛を払い落としながら言った。」

米原真里「打ちのめされるようなすごい本」の「新居の猫と待望の和露辞典」より 「P・ネヴィル著『猫に精神科医は必要か』を覗きたいのだが、引っ越し騒動で気の遠くなるような未整理の本の山の中に紛れ込んでしまって、」「今までわが家の猫が問題行動を起こす度にお世話になってきた」
転居後の家の中の猫という一番必要な状況で肝心の本が荷物に紛れて見つからない…真里さん、ユーモラスな描写です。

工藤投手がダイエーに移籍した後のチームの大きな変化を思えば、杉内投手の巨人への移籍の役割を思う。もし巨人開幕投手が杉内で、あるいはホークスの開幕が帆足、細川バッテリーという事態になったら、鷹ファンとしては複雑(開幕投手予想で既に心配妄想)。なんぼ「背番号18番」を提示されても、入団前と後とでは違うでしょう、巨人という球団は。自信も実績もある選手ほど苦しいことがあるはず。
林真理子 「花探し」より 「『もうその人のことを愛してないからって言って、後足で砂をかけるようなことは出来ないわ。』「が、自分がたとえようもなく美しい猫になったような気がした。真白い毛並のペルシャ猫だ。片足を伸ばし、ポンと砂を蹴る。」「しかしこの“後足で砂をかける”という言葉は、予想以上の効果があったようだ。」
文春文庫「私の死亡記事」の米原真里「終生ヒトのオスは飼わず」より 「死因は狂犬病と推定されるが、」「肺に大量の猫の毛が詰まっていて、」「野良犬たちに前夜に食べ残したビフテキを配ったところ、一匹に手を軽く噛まれたのが命取りになった。」「喪主は故人の遺言に従い、養子の無理さんと養女の道理さんが務めるが、両名とも猫であるため、念のため人間を代表して」
森茉莉 「私の美の世界」の「夢を買う話」より 「彼女は足の裏まで黒い黒猫で、柔らかで滑らかな毛皮の中に、濃藍色の目玉を薄緑色が囲んでいる、大きな眼が嵌っていて、猫を最も厭らしくするところの、あのニャーゴという声を、生れてから死ぬまで決して発しなかった。」「猫族の中で特に誇りが高く、腹が減ると鰹節飯や魚をおく新聞紙のところに、私に背を向けて座った。」「『私の夢の中でお前は脚が鳥で頭が猫の怪物と一緒に空を飛んでいた。お前は毎晩、どこへ行ってくるのだ?』と。」「死ぬ日の午後、寝台の下から私を見て、一声啼いたお前の声は今でも私の胸を掻き毟る。」「何故ならお前は自分が猫であることも知らず、死というものを知らずにいて、そのために幸福だった。それが、最後の日になって、やっぱり何かを感じたらしかったからだ……。」
鴎外の娘である森茉莉の作品を初めて読んだ。中野翠氏が絶賛し憧れる作家なので興味はあった。父鴎外でさえ作家というよりは翻訳家と断じる。猫を書いた文も何やら詩的で翻訳口調の箇所も。

ニックネーム わかたかたかこ at 15:16| Comment(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

猫カフェKeurigTheLoft警固

福岡の猫Cafe ClassicとKeurig今泉店を日帰りで訪問した。本当は長崎市の猫カフェに行きたかったのだが、Classic様が10月中に閉店というので。
本当は猫Cafe Classicにとても近いKeurig大名店も訪問したかったのだが、1日で3軒の猫カフェは無理がある。
6月に今泉店を訪問した際はSメディアを忘れ、コンデジ本体のピクセルは小さく、写真容量はわずかに29枚で満足な撮影ができなかった。
ランチ時間帯に今泉の猫カフェKeurigへ。 晴天に恵まれ、外の景色をバックに猫の撮影には最高。6月に訪問した際は黒白猫が(その1年前も)レジ台でずっと寝ていた。その特等席?を生後6ヶ月程の茶トラが占領していた。
他にも同月齢程の茶トラが数匹。この子らは6月に見た、元気な子猫達のその後であろう。ハローウィンが近いからか、店内はオレンジや黒の飾りが。 とても美しいグレー白の子、個性的なマスクのパステル三毛、キジ柄の一見雑種ではなくて血統書つきの猫に見える(お店の方に猫種を聞きそびれた)美しい子もいた。フロアに出ている猫は15匹くらい。
注文したパスタセットがサーブされる。パンとサラダがついて1時間約1280円。他の猫カフェと比較してもお得感がある。
もっと安い料金のメニューもあるが、肉類が苦手なのでいつもパスタを注文。
猫が味付けの濃い人間の食事を食べるのは良くないので急いで食す…が、欲しがる子も特にいなかった。
岩合光昭氏の写真集の洋書が置いてあった。
キューリグでは入店前にあらかじめメニューを店頭かお店HPで確認、注文の品を決めておく事をお薦めする。
特にパスタ類は麺、ソースと2重に加熱してあるので、食べるのにも時間がかかる。サーブされるまでに猫と遊び、写真撮影を済ませておく。
でないと、1時間はあっという間。キューリグのように飲食メニューの水準が高いと、猫と触れ合う時間と両立させるのは難しい。
どうせ延長料金を払うのなら、大名店の猫達にも会いたくなるし…。

キューリグ大名店を今回初めて地図無しで発見。雨天や夜間は見つけ難いかと思う。時間が無いので訪問しなかったが、ガラス窓越しに猫達を見る事ができた。
猫Cafe クラシックがすぐ近くにある。やはり閉店が近いのだと路地に入る手前の看板を置いていなかったことで思い知る。
3回目で最後の訪問。店長と6月に見た可愛らしい女性スタッフは不在で、これまた美人のスタッフが出迎えてくれた。お2人に会えなくて残念だが、彼女と1人で来ておられた若い男性客(お話の内容から、獣医学部の学生さんかも?)と猫や動物談義で盛り上がる。途中から入店した一眼レフを持った男性のただならぬ雰囲気に圧倒される。カメラは下に置いておられたし、猫撮影には相当手練れの方、とみた。リンゴジュースを注文。猫は通常いないビビ様が特別に勤務、合計7匹。ロビンは鍋の中、他の子もお気に入りの場所に陣取っている。Classic音楽が流れる中、静かに時が流れてゆく。すぐ近くに別の猫Cafeがあるという大名は、動物にも若い経営者にも寛容な土地柄だと思っていたのだが、Classicが閉店とは本当に残念。経営難、という理由ではないだけに。

大好きな作家、保坂和志氏の「猫の散歩道」へのオマージュも兼ねて、猫カフェクラシックへの愛惜の念を。

大名の散歩道

ただ黙ってそこにある。路地へ辿り着く前に大きな瞳の、毛の長い猫の看板が導く。砂利を踏みしめ、古めかしい外装の居酒屋と自転車。2階建ての小さなビルの階段を昇る。
ドアを開けると二重扉の向こうでクラシック音楽と穏やかな空間、毛並みの良い美しい猫たちが出迎えてくれる。
マンチカン、スコティッシュフォールド、エキゾティックショートヘア、メインクーン、ヒマラヤン。5種7匹のねこ達。
ロッシーニ、ストラヴィンスキー、ガーシュイン、パッヘルベル、ドヴォルザーク、ベートーヴェンにハチャトゥリアン。
ねこ達が奏でる協奏曲、変奏曲に巨匠たちは新たな旋律を加えるだろうか。
タクトを振ってお気に入りの棚の上から睥睨する猫の指揮者は実に颯爽としている。
この小世界を築いた猫らと3人の若者に感服する。


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ニックネーム わかたかたかこ at 14:39| Comment(0) | 猫カフェ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする